利賀を彩った人々PEOPLE

1931年~2013年。
文化人類学者。元札幌大学学長。東京外国語大学名誉教授。主な著書に『道化の民俗学』、『「敗者」の精神史』など。
 
シンポジウム「空間の劇性について」 利賀山房 (利賀山房第5回公演)
シンポジウム「文化と演劇」 利賀山房 (利賀山房6回公演)

手づくりの劇場
 ニューヨークでは可能で、東京では不可能なことが、東京を離れて不可能ではないということを示したのが鈴木忠志氏の主宰する富山県東砺波郡の利賀村の利賀山房の場合である。5年前にこの合掌造りの民家を改築した劇場が開かれた時に行き損ねて以来、毎年の公演時に、国外に滞在したり、国外から突然客があったりして、利賀村を訪れる機会が延び延びになっていた。今年の1月、演技指導のためにニューヨークを訪れた鈴木忠志氏に会った折、本年度の公演は5年の第1期(?)の最後の公演であるので、利賀村を必ず訪れるという誓いを立てさせられた。
今年落成した新劇場については毎日をはじめとする各紙及びテレビの「若い広場」などの番組で紹介され、8月から9月にかけて広く話題になった。また、『ユリイカ』に連載中の断章の中でも5年間皆勤の大岡信氏が4ページを費やして利賀山房について丁寧に紹介している。
この利賀山房公演の最終列車に乗り遅れないようにという鈴木氏の配慮からか、私も鈴木氏司会の「建築と劇空間」についてのシンポジウムに磯崎新、篠山紀信氏と共に参加することになった。急用のために、第1日目に間に合わず、早稲小(早稲田小劇場)の建物の後を継いだ銅鑼魔館の仕立てた貸し切りバスで出発したのはよいが、あいにくの集中豪雨で予定のコースに道路陥没が起こり、コースを変更したため道に迷い利賀村に着いたのは、都内早稲田の地を出てから約18時間後であった。ジェット機ならパリかロンドンに着く時間であった。全世界の大都市で人間が同じようなことをしている今日、或いは利賀村へ行った方が、違った世界に行ったと実感をこめて言えるかも知れない。だからと言って、利賀村が秘境にあるという50年前の極り文句を繰り返そうというのではない。違った世界は物理的にあるのではなく、集まった人間が作るという意味で言っているのである。違った世界が成立するのは、その空間を埋めている人間が、すでに幾分か変身しているからである。敢えて言えば、そうした変身に対する許容量の大きさが劇場空間の魅力であると言えるだろう。
演じられた演目の中で第1日目の利賀村の人達の獅子舞い、観世栄夫の能は見逃したが、第2日目の野村万之丞の、特に「三番叟」はふつうあまり接する機会が無いだけに、どちらかといえば能舞台に近い利賀山房の舞台では造型的な迫力に満ちたものであった。「劇的なるものをめぐってⅡ」「トロイアの女」はこれまで見逃していた私には大変有難い舞台であった。1月ニューヨーク大学とブルックリンの演劇大学で、鈴木・白石(加代子)の演技の型についての講演と演技をじっくり見る機会があったので、意識の深層の神話空間まで掘り起こして身体造型を試みる鈴木演技理論の肉づけをまのあたりに見る思いで改めて瞠目した。
都市の劇場に馴れた人にとって、この演劇空間に参入するためにはかなりの快適さを犠牲にしてかからなければならない。東京からだと、ふつうは7時間、下手すると私達のように、18時間という道程は、空間的移動に要する時間が大幅に短縮されている今日、殆ど巡札の所要時間に近いといえるかも知れない。巡礼といっても演劇インテリの総本山詣でという皮相な意味においてではなく、日常生活の時間からわが身を解き放つという意昧においてである。つっかけで行けるような縁日的劇場は別として、一般に都会の劇場に赴くという行為には、こうした遮断の時空が欠けているから、日常生活の「快適」基準が容易に劇場の中に持ち込まれてしまう。
利賀山房は、そうした安易で快適といった基準を断ち切ってしまう。この公演のために全国から「蝟集」する5,000人の観客もこうした空間の成立に大いに与ってカがある。まず上演の度ごとに、高齢者層の多い招待客への多少の配慮はあるが、客は、雨の時には傘をさして長蛇の列のどこかに並ばねばならない。
磯崎設計の新山房では客は第一の棟に招き入れられて靴を入れるビニール袋を渡される。これは旧早稲小から引き継がれた劇場と客の接触の形で、昔の芝居小屋の下足番のささやかな復活であろう。第一の棟は物見の櫓のような造りで、上半分は総ガラス張りで、棟の内半分は階段になっている。階段は通路のようでもあり座席のようでもある。特に棟の中央にそれ自体が舞台でもあるような1.5メートル四方くらいのミニ能舞台の如きプラットフォームが設けてあるので、観客は「不確定性」の不意打ちを喰らうような気分を抱きながら、第一の棟と舞台のある本陣を距てる廊下伝いに急ぐ。椅子のない畳と板の平面の上に観客は有無を言わせずつめこまれる。舞台の上の方の空間は黒塗りのガッシリした梁がめぐらされ、黒塗りの柱が林立している。この空間が違った世界の入り口であるかの如き印象を与えて観客を不安に陥れる。
鈴木氏の司会による磯崎・篠山氏とのシンポジウムにおいて私が述べたのは次のような意見であった。
近代劇場が都市の「均質空間」の上に成立しているとしたら、この劇場は、都市から離れた山村の「不安空間」の上に成立している。前者では、明るく隅々まで照らし出される室内装飾の中でナンバーを打った一定の容積を確実に人間が埋めるべく予定されているとしたら、後者のこの劇場は得体の知れない不確定性の空間に満ち満ちて、観客は自分の占める空間も保証されない。そもそも、この劇場の全体的な構築は、舞台のある内陣を子宮と見立てた母胎のメタファーを体現している。暗い内陣は、彼方からここを通して、この世ならぬもの、つまり精神の深層をかいくぐって、この世の他の場所では形にしえぬ「もの」が立ち現れるという意昧での「劇的空間」なのである。従って人は、こうした「もの」の化現に立ち会うことにおいて、死と再生を体験するのであろう、と、いうようなことを。
大岡氏も紹介しているエピソードであるが、シンポジウムが終わって「トロイアの女」の開始を待つ合間に、観客の間にざわめきの声が起こった。見ると舞台の背の梁の上を青大将が一匹悠々と移動している。途中まで衣裳をつけた女優が現れてこの蛇を連れさった。拍手する観客を抑えて鈴木氏が「山口さんの言った“不安空間”というのがこれなんですよ」といったために安堵の笑いが捲き起こった。
帰途のバスは、迷路に踏み込むことなく、とはいえ渋滞のためまたしても12時間を費やして我々を冥界から連れ出してくれた。異郷から戻ったリップ・ヴァン・ウィンクルの如き心境で利賀村の時空を回想している時に、実は、柳田民俗学の山中他界観ではないが、山中利賀村へ赴くという行為がすでに母胎回帰の神話的行為であったのだという事実に想いが至った。つまり、利賀山房という凝縮した劇空間が二重の意味での祝祭の時空であったし、更に、舞台の上での演技する肉体を加えると、あの利賀村民と早稲小が「手づくり」で築き上げ、共有している空間は、無限の入れ子式の祝祭的変身のための、そして周縁を限りなく中心に転換するための仕掛けであったのだ。
(毎日新聞 1980.10)