芸術公園のあゆみ 1976 - 1980HISTORY

1976 - 1980

利賀芸術公園設立にいたるまで

1950年代から日本社会の都会化現象が顕著になり、利賀村は急激な人口流出に直面していました。人口流出=過疎化現象を食い止めるために、利賀村は様々な施策を考え、実行していきました。そのひとつとして、1973年に合掌造りの民家5棟を百瀬川流域に集め、「利賀合掌文化村」と名付けたのです。

1966年に東京都新宿区に早稲田小劇場を建設し、60年代から始まった日本の新しい演劇運動の中心的存在として活躍していた演出家鈴木忠志とその劇団が、新たな活動の拠点を探していた時、この合掌文化村のことを知り、1976年2月11日の豪雪の日にこの地を訪れました。

その時のことを鈴木忠志は、「聖地・利賀村」という文章の中で次のように書いています。
「みわたすかぎり白い雪原のなかに、急勾配の黒ずんだ茅葺の屋根がわずかに首をだして、降りしきる雪のなかに見え隠れしている。なるほど合掌造りとはよく名づけたもので、自然の圧倒的な力に抗して、天に向って合掌していたのである。雪のなかを四つん這いになって泳ぐように進んでいき、2階の窓から室内に下り立ってみると、今度は外界の白さとは対照的な黒く煤けた柱の林立である。それも平地の家屋の柱とはまったくちがい、太く高く、自然のままの曲線が生かされている。荒っぽいが力強い。

必要最小限の構造材によって空間をがっちりとおさえこんでいる余分のなさは、実に男性的で、はじめて日本の家屋というものに感動したのである。

私はかねがね、劇場という概念のために奉仕するようにつくられた建造物ではなく、住空間をそのまま劇場にすることはできないかと考えていたから、ここを舞台とすることに躊躇するところはなかった。」

「聖地・利賀村」 全文を読む

利賀村から5年契約で借り受けた合掌家屋1棟を劇団員と共に改造し、稽古場兼劇場にしたのが「利賀山房」で、1976年8月28日に開場記念公演を行いました。この公演には、東京をはじめ全国各地から約600人の観客が集まり、大きな反響を呼びました。その時のことが、朝日新聞には次のように紹介されています。

熱気むんむん“道場開き”
早稲田小劇場の「利賀山房」
冷雨つき観客600人

東京を離れた山間の地に斬しい演劇活動の可能性を切りひらこうと富山県東砺波郡利賀村の古い合掌造りの民家に新しい拠点をつくった劇団早稲田小劇場(鈴木忠志代表ら38人)の「利賀山房」の開場記念公演が28日夜、全国から集まった約600人の熱心な観客を前に、にぎやかにおこなわれた。受け入れた村側も全面的な協力態勢をとり、このユニークな試みはまずスムーズに滑り出した。

会員、予想超える

「利賀山房」までの道のりは遠かった。東京から富山まで特急列車で約6時間。高山線に乗りかえ、越中ハ尾駅から、さらに一日三往復しかない利賀村営バスに乗って、人家もまれな山また山の急こう配の道を登ること一時間余り。百瀬川に沿った山あいの7戸の合掌集落のなかに、早稲田小劇場の劇団員たちが手づくりで劇場用に内部改装した「利賀山房」がひっそりとあった。

黒光りする重厚な柱や梁(はり)をそのままに残した約160平方メートルの家の内部には、能舞台にも似た大きな張り出し舞台がつくられ、それを薄べり敷きの客席が三方から囲む。大気はすでに底冷えがするほどの鋭さで、森閑とした自然のなかで深夜まで続けられる劇団員たちの激しいけいこは、“道場”の趣をおびている。

ごく少数でもいい、ここまで列車をのりつぎ、泊まりがけで芝居を見に来てくれる演劇愛好者がいてくれれば ─ と始まった新拠点づくりだったが、この計画は予想外の反響と共感を呼び、劇団側が募った支持会員はあっというまに600人を超え、今年は一晩だけのオープニング記念公演を予定していた劇団側は、あわてて会員募集を途中で打ち切ったほど。

同劇団に合掌造りを貸した利賀村もはじめはとまどい顔だったが、いまや全村あげて劇場歓迎の態勢。昭和20年代の半ばまでは人口4,800人を数えたこの村も、現在は住民1,480人という過疎村の典型である。外部から泊まりがけで芝居を見に来てくれれば、村25軒の民宿がうるおう。だが、それ以上に村民を驚かせたのは、演出家鈴木忠志がリードするこの劇団独特の猛訓練だったようだ。

全村、あげて後援

村役場の一室で、戦中派の野原啓蔵村長はすっかり感じいった面もち。「いや、この堕落した日本に、あれだけの厳しさが若人に残っているのを知っただけでも私は実にうれしい。若い職員たちにも、極力けいこを見にいけとすすめておるのです」

かくして公演当日には、役場の職員の6割に相当する46人が超勤手当なしで応対に出勤、7台ある村営バスもすべて観客を駅から劇場まで運ぶためにフル運転するという“過熱状態”が生まれたのである。

28日の当日は朝からあいにくの冷雨が降りしきった。午後1時からは、村民のための無料の公開舞台けいこ。約400人の人たちが好奇の目で客席を埋めた。

いよいよ夕方6時すぎ。東京はじめ北海道、九州からもかけつけてきた600人の観客で、客席は身動きもならず、立ち見も出る盛況。無料の招待券はただの1枚も出さない方針なので、いずれも自弁ではるばるやってきた人たちばかりだ。さすがに若者たちが多い。衣笠貞之助、大原富枝、郡司正勝、岩波雄二郎、茨木憲、大岡信、中村雄二郎、吉行和子、清水邦夫、高橋康也、清水徹、石沢秀二といった人たちの姿も見える。

まず利賀村芸能保存会がにぎやかに地元の獅子(しし)舞を披露、つづいて観世寿夫、栄夫、静夫の観世三兄弟の友情出演による能「経政」の上演。暗く沈んだ合掌造りの空間の中で、シテの観世寿夫の舞いは、普通の能楽堂での上演とは違う息をのむほどに緊迫した美の世界を描き出した。

鈴木、感激の一夜

第三部が鈴木構成・演出による早稲田小劇場の公演「宴の夜」。女装の道化役者、傷い軍人、老女の三人による記憶と幻想の芝居ごっこが、チェホフの「三人姉妹」、エウリピデスの「バッコスの信女」「トロイアの女」、べケットの「ゴド一を待ちながら」、岡潔のエッセーなどの断片を借りて結びあわされ、総体として複層的な日本論を形づくる。白石加代子、豊川潤、土井通肇ら劇団員たちのダイナミックな演技に熱い拍手がわいた。

終演後は、たる酒をくみかわしながら、俳優、観客、地元の人たちが交流するにぎやかさを極めた祝宴となった。夜がふけ、村内各地の民宿に向かうバスが出発する時間になっても、なかなか座を立とうとしない観客が多かった。その光景を見ながら、リーダーの鈴木忠志はしみじみといった。

「こんな遠い所まで、本当にこれだけの人が手弁当で見に来てくれた。ぼくの演劇生活でも、これが最良の夜だ。これで生涯、芝居をやりぬく覚悟がついた」

(朝日新聞1976年9月1日)

以後4年間、毎年夏の公演が行われましたが、利賀村と劇団との5年間の契約が終了するため、劇団は村での活動を終えることにしました。しかし、利賀村は地域活性化のためにも大きな夢を与えてくれる可能性のある鈴木忠志の活動をさらに継続拡大してもらうために、演劇活動に必要な施設の整備にとりかかりました。1980年には、既存の利賀山房を劇団員の宿舎に改造し、世界的に活躍する磯崎新の設計による新たな合掌劇場「利賀山房」を開場、エントランス・ルームとしてのホール棟も建設しました。

演劇創造に適した自然環境と、利賀村当局の熱意に感動をおぼえた鈴木忠志は、利賀村での活動を一劇団の事業にとどまらず、日本のすべての機能の中心が東京へ一極集中する傾向への問題提起を行うために、1982年に富山県認可の財団法人、国際舞台芸術研究所を設立、世界演劇祭「利賀フェスティバル」をはじめとした国際的な活動にとりかかりました。この活動を主催した財団の理事には、鈴木忠志とその劇団の活動を応援する東京ならびに地元富山県の著名な人たちが就任しました。

理事長

  • 鈴木忠志 (演出家)

副理事長

  • 大岡信 (詩人、明治大学教授、日本文芸家協会理事)
  • 大河内豪 (帝国劇場支配人、国際演劇協会日本センター理事)

理事

  • 磯崎新 (建築家、磯崎アトリエ主宰)
  • 大島文雄 (富山大学名誉教授、富山県芸術文化協会会長)
  • 郡司正勝 (早稲田大学教授、国立劇場理事)
  • 高橋康也 (英文学、東京大学教授)
  • 堤清二 (西武百貨店会長)
  • 勅使河原宏 (草月流家元、草月会理事長)
  • 中村雄二郎 (哲学者、明治大学教授)
  • 深山栄 (北日本新聞社社長、富山県芸術文化協会副会長)
  • 緑川亨 (岩波書店社長)
  • 山口昌男 (文化人類学、東京外国語大学教授)

監事

  • 野原啓蔵 (利賀村長)
  • 真木小太郎 (舞台美術家、舞台美術・劇場技術国際組織日本センター理事長)

そして、日本で初めての世界演劇祭「利賀フェスティバル」が1982年に開催されました。
利賀村はこの演劇祭のために、富山県の応援を得て、磯崎新設計による野外劇場を新たに建設。第1回「利賀フェスティバル」は、6カ国12団体が公演し、国内外から13,000人の観客が集まりました。

その後も、利賀村、富山県によって、劇場、宿泊施設などの整備が進み、利賀村におけるSCOT(Suzuki Company of Toga)を中心とした演劇活動は世界の注目を集め、利賀村は一躍、世界の演劇人に演劇の聖地の一つと言われるようになりました。

なお、利賀フェスティバルは1999年に終了、国際舞台芸術研究所は2000年に解散し、その後の利賀村の主要な事業は、2000年に設立された文部省・総務省認可の財団、舞台芸術財団演劇人会議が引き継ぎ、現在に至っています。

 
1976 

鈴木忠志と早稲田小劇場が合掌家屋1棟を5年契約で利賀村より借り受ける。
「利賀山房」開場。

 
  • 「利賀村獅子舞」
  • 観世寿夫出演 「経政」
  • 鈴木忠志演出 「宴の夜」 早稲田小劇場
利賀山房開場記念公演
利賀山房開場記念公演
 
 
1977 
  • 鈴木忠志演出 「宴の夜・二」 早稲田小劇場
 
 
1978 
  • 鈴木忠志演出 「宴の夜・三」 早稲田小劇場
  • 田中泯振付 「舞態」
 
 
1979 
  • 鈴木忠志演出 「宴の夜・四」 早稲田小劇場
  • 衣笠貞之助監督 映画「狂った一頁」
 
 
1980

磯崎新設計の新しい合掌劇場「利賀山房」とエントランス・ルームとしてのホール棟が完成。

利賀山房とホール棟
利賀山房とホール棟
 
  • 「利賀村獅子舞」
  • 観世栄夫出演 「鐵輪」
  • 野村万之丞出演 「野村万之丞抄」
  • 鈴木忠志演出 「白石加代子抄」 早稲田小劇場
  • 鈴木忠志演出 「トロイアの女」 早稲田小劇場
  • 磯崎新、篠山紀信、山口昌男、鈴木忠志 「シンポジウム・空間の劇性について」