利賀を彩った人々PEOPLE
島田 雅彦Shimada Masahiko
1961年生まれ。
小説家。主な著書に『彼岸先生』、『退廃姉妹』、『カオスの娘』など。
利賀村という開放病棟
5日間の利賀村籠りを終えて、高層ビルの最上階でビールを飲みながら東京のコンクリート林を見下ろしていると、再びコウモリ的な執筆生活に戻るのが切なくなった。おそらく、もう1週間村にいろといわれたら、拷問のように感じていたかも知れないのだが……。
しかし、利賀村の杉の木にあたる無数のビルと無数の窓を見ていると、やり切れない気分になる。建物の窓一つ一つに東京の住人たちの怨念が籠っているようにすら思えたのだ。短かい夏休みも家庭サービスに費し、疲労困憊したあげく再び通勤電車に乗り込むサラリーマンは永久にケガレを抱えたままではないだろうか。
気の毒なサラリーマン諸氏(もちろんぼくだって例外ぶってはいられない)の都には様々な快楽(ハレ)のネタは転がっているが、サラリーマンの肉体に深く澱んだ疲労(ケガレ)を癒すには至らない。90分3万円とか前金1万円ポッキリの快楽(ハレ)は疲労(ケガレ)を増幅することにもなりかねない。
東京はあらゆる情報やシステム、階層、商品の多様性が折りなす「巨大にして生ける」テキストである、という捉え方がよくされるが、そのテキストの網目一つにICのように組み込まれた人間はハレとケガレのダイナミズムを奪われ、起伏のない日常に這いつくばっている。多様体としての東京も一人の人間の目から見れば、ハレもケガレもない茫洋とした空間に過ぎないのだ。情報の多様性も実のところ類似した惰報の氾濫だったりするのである。東京は事物が無秩序に雑居するエントロピー空間であるといった方がいいのかも知れない。そして、そのエントロピー空間を自民党や<汝の隣人>たちが必死に丸く収めようとし、住人もエントロピー空間に疲れ切っているので、丸く収められてやろうと考えている。東京にいれば、彼らの卑小な欲望の掃け口はあるし…… 。東京の住人はそこに住んでいるというより、そこに管理されているというべきなのだ。政治的にうまく構造化されたエントロピー空間はそれ自体が迷路であり、脱出口のない閉ざされた巨大な箱庭なのである。
例えば、そんな東京からある男が少数の集団を連れて、脱出し、ある過疎村にマレビトとして迎え入れられたとしたら……。『地獄の黙示録』のカーツ大佐を思わせるその男鈴木忠志を主人公にした10年がかりの演劇がここに成立する。
利賀村へ通ずる道は1本で、冬は4メートルもの雪が積もる。人口は1200で林業やいわなの養殖で生計を立てている。村名は咎人を送っていた歴史から由来する。利賀村は鈴木忠志率いる早稲田小劇場の本拠地となってから一躍世界に知られることになる。道路は整備され、公営施設も次々に建設される。さらにカリフォルニア大学の研修所もできる。演劇を導入することによって、閉ざされていた過疎村は外部に開け、内部(地方自治体)からは施設の充実が達成され、ここに風変わりな演劇村が誕生することになったのだ。
「鈴木忠志は劇作家ではなく政治家だ」という声も聞いたが、政治を排除することによって成立する演劇は案外貧弱なものだとぼくは思っている。利賀村の過疎対策や豪雪対策、富山県の文化振興と各々勝手なことを演じる劇団が1本のセリーとして連結するのはなかなか奇想天外ではないか。さらにこのセリーに世界各国の都市との惰報ネットワーク(衛星中継基地)やパソコン通信がからめば、東京の衛星都市としての機能も充分持つことになるだろう。その時、鈴木忠志の10年がかりの演劇は完結するのかも知れない。いや、完結した時は筑波研究学園都市のような構造を持つ管理された村に堕落してしまうのだろう。
利賀フェスティバルは東京にはないハレの空間である。酔払い運転も深夜の乱痴気騒ぎも咎める人はいない。今後、フェスティバルの会場だけでなく村のあちこちに無国籍のハレの空間が現出することを一観光客として願う。鈴木忠志演出の利賀村はさらに拡散してゆくことによって、つまり完結しないことによってより活力をみなぎらせることになるに違いない。
ところで、今回2本の野外劇を見て、野外劇場が持つ不思議な力をまざまざと知らされた。舞台の向うは池、そして森と山、上空には天の川が流れる、森に沿った道路からは車のヘッドライト、舞台照明に照らされた役者の影は霧の帯の上で揺れる。照明のまわりには蛾が乱舞する。こうした予期せぬ効果が芝居に介入するのだ。東京の芝居小屋やビルの谷間では美しい偶然が介入する余地はない。
野外劇場での芝居は森や山、川、池、虫、星、霧などと連結し、さらにギリシャの神殿がそうであったように彼方からの視線(神の目かUFOに乗った異星人の目か太陽の目かは知らないが)をも引き寄せるのである。
野外劇場は東京人の近視眼的生活と流行の文脈に沿った詭弱な芝居を相対化し、閉ざされた思考回路の風通しをよくする機能を持っているようだ。
野外劇場、温泉、夜毎の乱痴気騒ぎ……これらは都市生活者の疲労(ケガレ)を癒すだろう。そして、利賀村が今後、夢想者や異端者たちで賑わう一種の開放病棟になることを願う。
(現代詩手帖 1986.9)
小説家。主な著書に『彼岸先生』、『退廃姉妹』、『カオスの娘』など。
利賀村という開放病棟
5日間の利賀村籠りを終えて、高層ビルの最上階でビールを飲みながら東京のコンクリート林を見下ろしていると、再びコウモリ的な執筆生活に戻るのが切なくなった。おそらく、もう1週間村にいろといわれたら、拷問のように感じていたかも知れないのだが……。
しかし、利賀村の杉の木にあたる無数のビルと無数の窓を見ていると、やり切れない気分になる。建物の窓一つ一つに東京の住人たちの怨念が籠っているようにすら思えたのだ。短かい夏休みも家庭サービスに費し、疲労困憊したあげく再び通勤電車に乗り込むサラリーマンは永久にケガレを抱えたままではないだろうか。
気の毒なサラリーマン諸氏(もちろんぼくだって例外ぶってはいられない)の都には様々な快楽(ハレ)のネタは転がっているが、サラリーマンの肉体に深く澱んだ疲労(ケガレ)を癒すには至らない。90分3万円とか前金1万円ポッキリの快楽(ハレ)は疲労(ケガレ)を増幅することにもなりかねない。
東京はあらゆる情報やシステム、階層、商品の多様性が折りなす「巨大にして生ける」テキストである、という捉え方がよくされるが、そのテキストの網目一つにICのように組み込まれた人間はハレとケガレのダイナミズムを奪われ、起伏のない日常に這いつくばっている。多様体としての東京も一人の人間の目から見れば、ハレもケガレもない茫洋とした空間に過ぎないのだ。情報の多様性も実のところ類似した惰報の氾濫だったりするのである。東京は事物が無秩序に雑居するエントロピー空間であるといった方がいいのかも知れない。そして、そのエントロピー空間を自民党や<汝の隣人>たちが必死に丸く収めようとし、住人もエントロピー空間に疲れ切っているので、丸く収められてやろうと考えている。東京にいれば、彼らの卑小な欲望の掃け口はあるし…… 。東京の住人はそこに住んでいるというより、そこに管理されているというべきなのだ。政治的にうまく構造化されたエントロピー空間はそれ自体が迷路であり、脱出口のない閉ざされた巨大な箱庭なのである。
例えば、そんな東京からある男が少数の集団を連れて、脱出し、ある過疎村にマレビトとして迎え入れられたとしたら……。『地獄の黙示録』のカーツ大佐を思わせるその男鈴木忠志を主人公にした10年がかりの演劇がここに成立する。
利賀村へ通ずる道は1本で、冬は4メートルもの雪が積もる。人口は1200で林業やいわなの養殖で生計を立てている。村名は咎人を送っていた歴史から由来する。利賀村は鈴木忠志率いる早稲田小劇場の本拠地となってから一躍世界に知られることになる。道路は整備され、公営施設も次々に建設される。さらにカリフォルニア大学の研修所もできる。演劇を導入することによって、閉ざされていた過疎村は外部に開け、内部(地方自治体)からは施設の充実が達成され、ここに風変わりな演劇村が誕生することになったのだ。
「鈴木忠志は劇作家ではなく政治家だ」という声も聞いたが、政治を排除することによって成立する演劇は案外貧弱なものだとぼくは思っている。利賀村の過疎対策や豪雪対策、富山県の文化振興と各々勝手なことを演じる劇団が1本のセリーとして連結するのはなかなか奇想天外ではないか。さらにこのセリーに世界各国の都市との惰報ネットワーク(衛星中継基地)やパソコン通信がからめば、東京の衛星都市としての機能も充分持つことになるだろう。その時、鈴木忠志の10年がかりの演劇は完結するのかも知れない。いや、完結した時は筑波研究学園都市のような構造を持つ管理された村に堕落してしまうのだろう。
利賀フェスティバルは東京にはないハレの空間である。酔払い運転も深夜の乱痴気騒ぎも咎める人はいない。今後、フェスティバルの会場だけでなく村のあちこちに無国籍のハレの空間が現出することを一観光客として願う。鈴木忠志演出の利賀村はさらに拡散してゆくことによって、つまり完結しないことによってより活力をみなぎらせることになるに違いない。
ところで、今回2本の野外劇を見て、野外劇場が持つ不思議な力をまざまざと知らされた。舞台の向うは池、そして森と山、上空には天の川が流れる、森に沿った道路からは車のヘッドライト、舞台照明に照らされた役者の影は霧の帯の上で揺れる。照明のまわりには蛾が乱舞する。こうした予期せぬ効果が芝居に介入するのだ。東京の芝居小屋やビルの谷間では美しい偶然が介入する余地はない。
野外劇場での芝居は森や山、川、池、虫、星、霧などと連結し、さらにギリシャの神殿がそうであったように彼方からの視線(神の目かUFOに乗った異星人の目か太陽の目かは知らないが)をも引き寄せるのである。
野外劇場は東京人の近視眼的生活と流行の文脈に沿った詭弱な芝居を相対化し、閉ざされた思考回路の風通しをよくする機能を持っているようだ。
野外劇場、温泉、夜毎の乱痴気騒ぎ……これらは都市生活者の疲労(ケガレ)を癒すだろう。そして、利賀村が今後、夢想者や異端者たちで賑わう一種の開放病棟になることを願う。
(現代詩手帖 1986.9)