利賀を彩った人々PEOPLE

1931年生まれ。
詩人。東京芸術大学名誉教授。主な作品に『蕩児の家系』、『紀貫之』、『折々のうた』、『詩人・菅原道真』など。

利質村の夏の一夜
 「行きますか、今年も、利賀村?」
夏が近づいてからそうきかれることが何度かあった。利賀村は富山県東砺波郡にある。飛騨の山々を背にした五箇山の一部に属する。南北五十ニキロに及ぶ山中の広い村だが、村の人口は1500人たらず。日本でもおそらく有数の過疎村であろう。冬は4メートルを越す雪に埋れるという。農業、山菜の加工、岩魚の養殖などが村の主産業だときいた。
人口の流出に悩まされていろこの村に、一昨年の夏異変がおこった。合掌造りの民家を改造して劇団活動の根拠地にした早稲田小劇場利賀山房のただ一晩の公演に、東京はじめ全国各地から、600人の人々が押し寄せたためである。富山から高山線に乗りかえ、越中八尾駅下車、そこからバスで一時間以上も山奥へ分け入らねばならない村である。その村の二十数軒の民宿が、ただ一夜の芝居公演のために超満員となり、はみ出た人々は仕方なしに遠い富山や高岡その他に宿をとらねばならなかった。
最初の年だから、もの珍らしさもあって人々が押しかけたのかもしれないよ、と懐疑派はつぶやいた。しかし次の年、つまり昨年の夏の一夜も、前年とまったく同様のにぎわいとなった。最初の年に行った人は、山間の緑にかこまれた合掌造りの劇揚で、身動きひとつならないほど詰めこまれて観る芝居の、きりきり引き緊まった雰囲気が忘れられなくて、また出かけた。前年見なかった人は、評判をきいてあらたに山へのぼった。今年はどうだろう。やっぱり同様だろうと思う。村にはホテルだか旅館だかが建つ予定だと去年きいたが、もう出来上っているなら、宿泊事情もだいぶ好くなっているはずである。
なぜあそこで観る芝居は味が逢うのだろう。私はそのことについて割切った答を出すことはできないし、その気もあまりないけれど、最初の年も二度目の年も、わずか二時間たらずの一夜の舞台を中心にしてあの村で過ごした数十時間というものが、ざわざわと過ぎてゆく日常の営みの中で、いつまでも消えずに残っているのは不思議なほどだった。おもうに、あの遠い、山にかこまれた村にたどりつくために東京を出発した瞬間から、私はある別の時のはじまり、別の空間のはじまりの中にあって、その体験そのものが、私における演劇体験の一部になってしまっていたのではないか。
そういう体験の中には、夜になって利賀村めざしてタクシーに乗ったところ、道に迷って山ふところを往ったり来たり、まことに心細い思いをしたというような偶発事も含まれている。最初の年、私は妻と二人で富山からタクシーに乗って道に迷い、彷徨したあげくにようやく宿舎についたのである。その話をきいて笑っていた人々が、次の年高岡から二台のタクシーに分乗したところ、二台とも霧の中で迷い、おかしなことに途中ですれ違ったりもしながら、長い時間かかってようやく利賀村についたのだった。
いずれにしても、鬱蒼たる樹海をかかえた断崖のへりを、えんえんとたどり、のぼっていかねば、山にかこいこまれた小さな目的地には達しない。ここで芝居を観るという体験の中には、当然そういう旅をしてきたあとの、ある非日常的な解放感というものがあるわけで、だから、私自身の実感を言えば、観客は芝居をそこで単に観るためにやって来るのではなく、一人一人が何かしら演劇的時間・空間の内側にすでにすべりこんだ状態になって、舞台を共有するためにやって来るのだと言えそうに思われる。
今年、鈴木忠志は利賀山房公演「宴の夜Ⅲ」で「マクベス」の鈴木版を上演するという。マクベス夫人の白石加代子に対して、マクベスは観世栄夫、と人伝てにきいて、それは面白いだろうといったら、いや、マクベスはもう一人いるのだそうだ、という。もう一人のマクベスは、先ごろ岩波ホールの『バッコスの信女』で久しぶりに会心の演技をみせた蔦森皓祐だそうである。手についた血におびえるのも、マクベス夫人ではなくてマクベスの方らしい。さて何としよう。やっぱり今年も二晩どまりで山へのぼることにしよう。芝居の公演日数も、ついでにふやしたらいいのに、と思う。
(図書 1978.9)