利賀を彩った人々PEOPLE
松岡 正剛Matsuoka Seigo
1944年生まれ。
編集者。編集工学研究所所長。主な著書に『知の編集工学』、『松岡正剛 千夜千冊』など。
「あはれ」から「あっぱれ」へ 早稲田小劇場利賀山房公演を見て
利賀山房へはじめて汽車で行った。これまでは工作舎の撮影スタッフや機材とともにキャラバンを駆っていたので、5年目にしてようやく汽車を乗り継ぎバスを乗り換えての“レギュラー・コース”を知ったことになる。かくて、越中八尾駅から1時間あまりバスに揺られているうちに、あらためて鈴木忠志の意図がエンジン音とともに正確に伝わってきた。これはやっぱり「情緒の闘争哲学」だ-私はそう思った。
今年の演目は会員制度最終年と新利賀山房落成が重なって、シンポジウムを含めて3日間6本に及んでいた。シンポジウム以外、だいたい堪能できたと言ってよい。能狂言の方では、とくに『鉄輪(かなわ)』『那須与市』『三番叟』に出演した野村万之丞の、空間を切り裂き量的にまるごとつかみこんでくる演技、および一個の場所全体を口腔の呼吸で自在に出し入れしているかのようなマントラの力に目を見張らされた。万之丞は「空間のダンディズム」を告示した。
久々の『劇的なるものをめぐって・Ⅱ』と『トロイアの女』は事実上白石加代子のフィーチュア・ショーであるが、私には月面着陸機やアルフレート・クービンの絵をおもわせる鈴木健二の体もおもしろい。加代子については私の坐った―いや、超満員で坐らされたと言った方がよいのだが、その位置のせいで舞台の側面から見ることになり、はからずも加代子の腰と足首の同調異調関係に注目することになった。それは、本来硬質なるものが可能なかぎり柔軟なるものをめざして挑んでいる「ミシュレの鳥」のような印象だった。
少年の頃、鉛筆を水平に持ちはげしく上下させて波打たせるとグニャグニャに見える遊びがあった。硬いものが無限の柔軟をめざす不思議に夢中になったものだった。しかし、あれは錯覚ではない。知覚と対象との間には、もともとそのような擾乱回路や誤差回路が含まれている。扇風機が逆転してまわるように見えるのも光のサイクルと羽根のサイクルとの捩率のせいであって、錯覚ではない。きっとあるとき、鈴木忠志は加代子の知覚函数や身体函数にそのような「サイクルの秘密」を発見したのだろう。加代子の腰と足首がそれを物語っていた。
ところで、3日間を芝居や秋津トンボや月やら川やら連夜の宴会やらをはさんで送りながら、私がしきりに考えていたのは王朝以来の「あはれ」というコンセプトである。利賀山房が開いた5年前、『宴の夜』という演目が発表された。友人はこれを「ナショナリズムの浪漫」と評したが、私はかつては本居宣長が、近頃はまた小林秀雄が注視した「もののあはれ」を受けとっていた。「もの」は霊(もの)であって物(もの)である。ところが、しばらくしてこの「あはれ」が早稲田小劇場や鈴木忠志から散逸してしまったかのように見えた。いったいどこへ行ったのか―そうおもいながらのこの夏、私は「あはれ」の行先をつきとめようとしていたようだ。そして、「あはれ」は「あっぱれ」に転出していたことに気がついた。
平安王朝期、内裏と対屋構造をもつ寝殿づくりの中、後宮の女御によって醸成された「あはれ」は絵巻や大和屏風や古今集や浄土教に定着した後、院政期以降に台頭した武士によって蹴り飛ばされてしまった。代って慶派の彫刻にみられるリアリズムの隆盛である。では、「あはれ」がなくなったのかと言えば、そうではない。「あはれ」は「あっぱれ」になったのである。
寝殿に封印されることによってみずから演ずるを余儀なくされた「あはれ」は、武家社会では「あはれ」を見る者の側に移行する。「あはれ」に対して「あっぱれなり!」という立場が発生する。文化貴族の「あはれ」を闘う美学を演じる武門の者たちの「あっぱれ」の一言が制圧する。私はこの「あはれ」を「あっぱれ」に転位させた鈴木忠志の5年間をおもう。そういう意味では、合掌づくりに白木銅葺のモニュメンタル・ホールを配した磯崎新の「対構造」のアイデアは、能舞台にアルミ板を張ったアイデアとともに、やはり「あっぱれ」を象徴していた。
(流行通信 1980.11)
編集者。編集工学研究所所長。主な著書に『知の編集工学』、『松岡正剛 千夜千冊』など。
「あはれ」から「あっぱれ」へ 早稲田小劇場利賀山房公演を見て
利賀山房へはじめて汽車で行った。これまでは工作舎の撮影スタッフや機材とともにキャラバンを駆っていたので、5年目にしてようやく汽車を乗り継ぎバスを乗り換えての“レギュラー・コース”を知ったことになる。かくて、越中八尾駅から1時間あまりバスに揺られているうちに、あらためて鈴木忠志の意図がエンジン音とともに正確に伝わってきた。これはやっぱり「情緒の闘争哲学」だ-私はそう思った。
今年の演目は会員制度最終年と新利賀山房落成が重なって、シンポジウムを含めて3日間6本に及んでいた。シンポジウム以外、だいたい堪能できたと言ってよい。能狂言の方では、とくに『鉄輪(かなわ)』『那須与市』『三番叟』に出演した野村万之丞の、空間を切り裂き量的にまるごとつかみこんでくる演技、および一個の場所全体を口腔の呼吸で自在に出し入れしているかのようなマントラの力に目を見張らされた。万之丞は「空間のダンディズム」を告示した。
久々の『劇的なるものをめぐって・Ⅱ』と『トロイアの女』は事実上白石加代子のフィーチュア・ショーであるが、私には月面着陸機やアルフレート・クービンの絵をおもわせる鈴木健二の体もおもしろい。加代子については私の坐った―いや、超満員で坐らされたと言った方がよいのだが、その位置のせいで舞台の側面から見ることになり、はからずも加代子の腰と足首の同調異調関係に注目することになった。それは、本来硬質なるものが可能なかぎり柔軟なるものをめざして挑んでいる「ミシュレの鳥」のような印象だった。
少年の頃、鉛筆を水平に持ちはげしく上下させて波打たせるとグニャグニャに見える遊びがあった。硬いものが無限の柔軟をめざす不思議に夢中になったものだった。しかし、あれは錯覚ではない。知覚と対象との間には、もともとそのような擾乱回路や誤差回路が含まれている。扇風機が逆転してまわるように見えるのも光のサイクルと羽根のサイクルとの捩率のせいであって、錯覚ではない。きっとあるとき、鈴木忠志は加代子の知覚函数や身体函数にそのような「サイクルの秘密」を発見したのだろう。加代子の腰と足首がそれを物語っていた。
ところで、3日間を芝居や秋津トンボや月やら川やら連夜の宴会やらをはさんで送りながら、私がしきりに考えていたのは王朝以来の「あはれ」というコンセプトである。利賀山房が開いた5年前、『宴の夜』という演目が発表された。友人はこれを「ナショナリズムの浪漫」と評したが、私はかつては本居宣長が、近頃はまた小林秀雄が注視した「もののあはれ」を受けとっていた。「もの」は霊(もの)であって物(もの)である。ところが、しばらくしてこの「あはれ」が早稲田小劇場や鈴木忠志から散逸してしまったかのように見えた。いったいどこへ行ったのか―そうおもいながらのこの夏、私は「あはれ」の行先をつきとめようとしていたようだ。そして、「あはれ」は「あっぱれ」に転出していたことに気がついた。
平安王朝期、内裏と対屋構造をもつ寝殿づくりの中、後宮の女御によって醸成された「あはれ」は絵巻や大和屏風や古今集や浄土教に定着した後、院政期以降に台頭した武士によって蹴り飛ばされてしまった。代って慶派の彫刻にみられるリアリズムの隆盛である。では、「あはれ」がなくなったのかと言えば、そうではない。「あはれ」は「あっぱれ」になったのである。
寝殿に封印されることによってみずから演ずるを余儀なくされた「あはれ」は、武家社会では「あはれ」を見る者の側に移行する。「あはれ」に対して「あっぱれなり!」という立場が発生する。文化貴族の「あはれ」を闘う美学を演じる武門の者たちの「あっぱれ」の一言が制圧する。私はこの「あはれ」を「あっぱれ」に転位させた鈴木忠志の5年間をおもう。そういう意味では、合掌づくりに白木銅葺のモニュメンタル・ホールを配した磯崎新の「対構造」のアイデアは、能舞台にアルミ板を張ったアイデアとともに、やはり「あっぱれ」を象徴していた。
(流行通信 1980.11)