利賀を彩った人々PEOPLE

1932年~2002年。
英文学者。主な著書に『サミュエル・ベケット』、『ノンセンス大全』、訳書に『ベケット戯曲集』、ピーター・ブルック『なにもない空間』(いずれも共訳)など。
 
 シンポジウム「文化と演劇」 利賀山房 (利賀山房第6回公演)
 
利賀村から-第1回世界演劇祭
「場所の霊」(ラテン語では、「ゲニウス・ロキ」)という、おそらく古今東西に共通な考え方がある。どんな村落・都会・地方にも固有の「霊」が憑いていて、そこの自然と文化のたたずまいを支配している、という民俗信仰である。ただし、この「霊」というやつ、なかなか曲者である。あるいは、現代においてますます曲者になりつつある、というべきか。コンクリート・ジャングルの大都会にも、それなりの「霊」があるだろうし、逆に「ディスカバー・ジャパン」ふうに田舎へ行けば「霊」に出会えるという保証もない。「霊」はむしろ喚起され異化されることを待っているらしい。
高山本線の越中八尾駅からバスで1時間、山また山を越えた果ての富山県利賀村で、7月24日から8月7日まで開催中の「第1回世界演劇祭」は、「場所の霊」をめぐる卓抜な実験である。前夜祭が行われた野外劇場の観客は、まぎれもなくそのことを実感したのではあるまいか。池のヘリの斜面を利用して半円型の観客席を作り舞台を池の上に突き出させたこの劇場は、磯崎新の設計によるものだが、観客は舞台の後方にひろがる水面を見ることになる。そこには、勅使河原宏によって60本あまりの竹が配され、先端を裂いて柳のようにしだれさせたこの「水上の竹林」のさらに背後には、御神体を宿らせたかと見える山がそびえている。また、ギリシアめいた円型劇場からふりかえれば、すぐそこに純日本風な合掌造りを改造した劇場・利賀山房がある。

前夜祭としてここで上演されたのは、今回の演劇祭を主催した国際舞台芸術研究所の代表者でもある鈴木忠志の演出による早稲田小劇場の『トロイアの女』であった。
トロイア落城直後の女たちの悲運を描いたエウリピデスの悲劇を、敗戦直後の日本の一老婆の幻想として再現したのが、ほまれ高いこの作品で、私は東京やニューヨークで何度か見ている。冒頭、老婆役の白石加代子が「死者たち!」と呼びかけるあの地底から響くような声も、いわばおなじみのはずだった。だが、その夜、私はまったく新しい感興に打たれた。彼女は私たちを取りまく山ひだに住む山姥のようでもあり、「場所の霊」を呼び起こす巫女のようでもあったのだ。
呼び起こされた「霊」は、すなわち、彼女自身を含む俳優たち(シェイクスピアのいう「影たち」)であり、彼らの演ずる虚構の人物たちである。彼らはギリシア語の固有名詞のまじった日本語の台詞を語り、和服を着ておむすびを食ったりする。あまつさえ、最後は女の嘆きを歌った現代流行歌でしめくくられる。しかしそれらの不調和は、ギリシア風円型劇場の中で、不調和のまま奇妙に調和していた。私たちは、単に利賀村の「霊」のみならず、日本の、いやギリシア以来のこの地球上の、虐げられた女たちの「霊」の顕現に立ち会っていたのかもしれない。
明けて初日、利賀村伝統の獅子舞が演じられたのも同じ舞台上であったが、一方、近くのスキー場の斜面を使って、めざましいスペクタクルを展開してみせたのは、イギリスから参加したウェルフェア・ステート・インターナショナル劇団の『荒地とせきれい』である。『リア王』とアイヌ神話から想を得て、親子の不和、権力の争いから世界戦争が生じ、その廃墟から「希望」の象徴せきれいがよみがえる―この物語そのものも祝祭の本質をあやまたずとらえていた。しかし、圧倒的に面白かったのは、地形を利用して200人の観客を移動させつつ、次つぎと驚異にみちた経験にまきこんでゆくその仕掛けであった。そのための小道具はすべて、主宰者ジョン・フォックス以下の劇団員が、村民の協力を得て、この土地の材料から手作りで作ったものだという。
彼らがよみがえらせたのはせきれいだけではなかった。演劇の根源的ありかたであり、「場所の霊」であった。

「場所の霊」とは、定義により、土着のものではあるけれど、演劇とのかかわりにおいては、その土着性をあまり固定的に考えてはなるまい。演劇の発生状態をふりかえってみるがよい。その担い手はおおむね一所不住の遊芸の徒、河原乞食としての役者たちであった。かつて「わざおぎ」(霊を招く者)と呼ばれた彼らの演戯と仕掛けによってこそ、「場所の霊」は喚起される。というか、霊が招かれ鎮められるためには、定住と遊行、固定と出会い、同化と異化の、それこそ絶えざるドラマが必要なのだ。
英国ウェルフェア・ステート・インターナショナル劇団の活動の仕方は、そうしたいきさつを鮮やかに例証している。イングランド北部の寒村に共同生活を営む彼らは、年に何回となく国内各地にいわば「祭りの出前」に出かけてゆく(わが国の山伏神楽の巡回祈禱などを思い合わせてもいいだろう)。祭りの規模は結婚式や命名式のような家族的なものから20,000人を相手の大カーニバルに及ぶ。「出前」とはいいながら、彼らはときに3か月も前から公演地に移住して、その地の住民や「霊」と交流しつつ、手作りの見世物を作ってゆく。
そこには、英国中世の街頭で演じられた聖史劇や道徳劇など民衆的伝統が生き生きと継承されているのだが、彼らはこのたびその方法と精神を日本にまで「出前」してきたというわけだ。英国と日本の異質な、しかし根本的民衆性において多分に共通するものをもった「場所の霊」同士の出会いが、彼らによって仕掛けられた。その結果は、彼らの名が今まで日本で知られていなかっただけに、今回の演劇祭のダーク・ホースと呼びたいほど目ざましいものだった。演出家フォックスは、「来年4月はニューヨークに招かれている。ウォール街をどうやって燃え上がらせるか」と、農民的な顔に不敵な微笑を浮かべて語っていた。
そのニューヨークから参加したのが、あらゆる点で対照的なロバート・ウィルソンだ。世界前衛劇界の寵児としてあまりにも有名なこの洗練された都会人は、自作『聾者の視線』を主演してみせた。祝祭的野外スペクタクルとは打って変わって、これは極端なまでの密室無言劇である。国際演劇祭というものは、まあ平たくいえば、短期間にいくつもの世界的名舞台を見られるところにありがた味があるわけだが、フォックスとウィルソンによって示された演劇の両極的ありように接することができたのは、特権的経験であった。
さて、『聾者の視線』だが、舞台の左半分でウィルソンが二人の子供にミルクを与え、ナイフで刺し殺す。右半分でも、女優と子供たちによって同時に同じことが完全に対称的に進行する。普通に演ずれば5分とかからぬ行為が、1時間20分をかけて超スローモーションで演じられる。それだけといえばそれだけの芝居である。だが私には大いに面白かった。
ミルクとナイフ―日常的なこの二つの事物が、養うものと殺すものとして、これほどの呪術性と祭儀性を与えられたことも珍しいだろうが、単純な延長による時間のかくのごとき非日常化も空前の奇想である。フォックスにおける空間の非日常化の場合とは違って、観客は催眠術にかかったかのように座りつくし、自分の見ているものが舞台上の事件なのか、それとも自分の妄想の中の一場面なのか、わからなくなってしまう。
この「漂白された悪夢」とでもいいたい芝居を促しているのは、おそらく先進文明都市ニューヨークの「場所の霊」にちがいない。しかしウィルソンは、急病で来日できなかった黒人女優の代役を早稲田小劇場の杉浦千鶴子に演じさせ、子役には利賀村の子供を使った。ウィルソンの無機的な演技と、杉浦のかすかに日本的情緒をただよわせた好演の対比は、絶妙であった。ここでも、「霊」の出会いと交流の可能性は見事に証されたといえよう。

ロバート・ウィルソンのあとを襲って利賀山房の舞台に現れたのは、寺山修司率いる劇団天井桟敷の面々である。だしものは、これまたすでに内外に評判の高い『奴婢訓』。
「書を捨てて町へ出よう」と叫んできた寺山も、ウィルソンと似て、すぐれて都会的な芸術家である。天井桟敷はつねに「都市としての演劇・演劇としての都市」という思考の果敢な実験の場であった。土着の伝統によって保証される統一的意味を喪失した現代都市、その迷路の奥に住む怪獣ミノタウロスを捕えようとして詭計の限りをつくす寺山の演劇は、当然、一種の無(または脱)国籍性に近づく。海外における彼の名声も、そのことと無関係ではあるまい。さて、そういう芝居が、合掌作りの利賀山房の日本的雰囲気と、どんな調和あるいは異和を見せるか。
『奴婢訓』は、寺山の劇的想像力とスウィフトの黒いユーモアとの出会いから生じた作品であるが、そこから紡ぎ出される主人と召使いの関係をめぐる形而上学は、寺山独自のものである。ここで面白かったのは、物語の場所を東北地方の豪農の屋敷に設定した作劇術が、合掌作りの内部の舞台で、よく決まっていたことだ。たしかに、怪異な肉体や拷問機械で満たされた極彩色の空間(ウィルソンの黒白二色の幾何学性との何たる対比!)は、脱国籍的である。しかし、その脱国籍性そのものが、寺山の内部における農民的土着性と都市的普遍性の出会いによって成り立っているのだ。そのあたりの機微が、この舞台によって透視できたように私は思った。
演劇を「場所の霊」と結びつける臍の緒のごとき必然性、と同時に演劇が演劇となるためにその臍の緒をあえて断ち切って飛翔する必要性―この逆説は、利賀山房登場の三番手、ポーランド劇団クリコットⅡによる『死の教室』にもあてはまるだろう。作・演出は67歳でなお世界前衛劇界の第一線に立つタデウシュ・カントール。
登場人物たちは1910年代に小学生であった、つまり今や80歳近い十数人の老人老婆である。死を間近にひかえた彼らは、自分自身の少年時代をかたどった人形を抱いたり腰にくくりつけたりして、昔の小学校の教室に勢ぞろいする。(作者が「華麗な入場パレード」と名づけるこの場面の迫力はすさまじい。)失われた時を演じなおすことによって取り戻そうとする、せつなくもグロテスクな演戯が始まる。
なぜせつないか、という理由の一つは、この芝居に私たちは否応なくポーランドという国の悲痛な歴史を重ね合わさずにはいられないからだ。正確にいえば、人物たちは第一次世界大戦勃発当時オーストリア帝国の支配下にあった地方のユダヤ系ポーランド人であろう。大国の野望の餌食となりつづけてきたこの民族の嘆きが、舞台にあからさまに出ているわけではないが、たとえば一人物が直立してオーストリア国歌を歌ったり、大戦前の「ベル・エポック」(良き時代)をしのばせるワルツの調べに老人たちが踊り出したりする場面に、この国の「霊」が発する屈折した怨嗟の声を聞きとらぬことはむずかしい。
しかしこの芝居が傑作であるのは、そうしたノスタルジーや怨念によってではない。例のワルツが同時に中世の「死の踊り」のもつグロテスクなユーモアにまで精錬され、老いた肉体による回想ゲームが痙攣と混沌の儀式と化する―という演劇的錬金術(カントールのいう「死の演劇」)が残酷なまでに完璧に実現しているからこそ、私たちは感動するのだ。
それにしても、1975年のこの作品で祖国の恨みの歴史をここまで自律的な芸術に昇華させたカントールが、今日の軍政の下でどんなに苦渋にみちた思いを味わっているか、察するにあまりある。

開演前から舞台に姿を見せていたカントールが、舞台裏に向かって指を一閃させると、老人たちがいっせいに登場し、『死の教室』が始まる。彼はその後もずっと舞台上にとどまり、劇の進行をコントロールする。そのさまはオーケストラの指揮者のようでもあるが、私の脳裏にゆくりなくも浮かんだのは、能のワキ、すなわち過去の「霊」を透視しそれを呼び起こす力をもった霊能者としての、あの「諸国一見の僧」であった。
台風一過、詞章どおりの「明月」とはいかずともそれに近い快い夜空の下、池に立てたかがり火を背に、野外劇場で演じられた薪能『融』。ワキの僧の前に現れた前シテは、海辺もない京の都六条河原院に不思議な潮くみ姿の老人である。いぶかる僧に、老人は説明する。その昔、大臣源融が陸奥の千賀塩竃の眺望を移して再現したのがこの地なのだ、と。つまりここには東北の名所の「霊」、それをこよなく愛した風雅の大臣の「霊」がとどまっているのだ。退場した老人は、中入り後、後シテすなわち融その人の姿で現れ、幽玄そのものの舞によって失われた時を復元してみせる。
観世栄夫のシテがこうして時空を超えたエピファニー(霊の顕現)を味あわせてくれる前に、実は私たちは別様のエピファニーを同じ舞台の上に見ていたのだった。野村万之丞による『梟山伏』である。梟の霊にとり憑かれた弟の加持治療のために、兄は山伏を招く。だが梟は兄にも憑き、ついには山伏までが手を羽ばたかせ、ホーホーと鳴き始める。そのこっけいさは数多い外人観客の腹をも確実によじらせていたが、この簡潔明快な狂言は単純におかしいだけではない。「物憑き」とその治療というテーマは、おそらく喜劇と悲劇を問わず、演劇の根本にかかわっているはずなのだ。
論より証拠、その前夜、台風のため利賀山房で演じられた能『葵上』を見るがよい。光源氏の正妻葵上に憑いた物の怪の正体は何か。巫女の梓弓によって呼び出された前シテは、破れ車に乗り青女房を従えた上臈、実は嫉妬に燃えた六条御息所の生霊であった。小袖一枚によって示された病床の葵上を扇で打つ執念は恐ろしい。調伏のため招かれた横川の小聖の加持とともに、悪鬼の姿をとった後シテが現れるが、葛藤のすえ、法力によって退散させられる。これはまさに『梟山伏』がそのパロディであるかのような物語ではないか。
若い能楽研究者の集団である「橋の会」は、今回の上演にあたって、車の作り物や青女房を実際に登場させるなど、大胆な原型復元の試みをするとともに、シテの登退場に舞台上手を用いる新演出をやってのけた。シテ浅見真州の好演もあって、能の原型を掘り下げることによって、これを現代劇たらしめようとするこの会の将来は楽しみである。
銕仙会によるもう一つの曲は『百万』であった。狂気のしるしの笹の小枝を手に、別れた子を求めて舞う狂女。その子別れと再会の物語にも、「場所の霊」の因縁がからんでいるらしいのだが、今は詳述のひまがない。シテ観世銕之丞の手の笹の揺らぎがまだ眼底に残るうちに見たもう一つの狂女物に話を移そう。太田省吾と転形劇場の演じた『小町風伝』は、その題名からして能への親近性を思わせるが、実際東京の能舞台で初演された作品である。ウィルソンに匹敵するスローモーションで登場した佐藤和代演ずる老婆、その回想場面の美しさも、それを異化する場面のこっけいさも、利賀山房の舞台空間でよく生きていた。
そういえば、『融』といい『死の教室』といい、そしてアメリカのメレディス・モンクの『少女教育』、および最終日を再び飾った『トロイアの女』といい、この演劇祭に世阿弥のいう「老体」の芝居が多かったのは偶然だろうか。もしかしたらこのあたりを領する山姥のひそかな霊力が作用していたのかもしれない。
(読売新聞 1982.8)