利賀を彩った人々PEOPLE
河合 隼雄Kawai Hayao
1928年~2007年。
臨床心理学者。元文化庁長官。主な著書に『ユング心理学入門』、『昔話と日本人のこころ』など。
感動と疑問
タイトルをみて、これはどういう取り合わせだろう、と思われた方があるだろう。ここでは、どちらも「人を動かす力」のあるものとしてあげた。何かの話に感動して、「よし、やろう」と思う。あるいは、何かについて「なぜだろう」と思い、答えを探しているうちに、いろいろなことをしなくてはならなくなってくる。りんごが落ちるのを見て疑問を感じ、その後に相当なことをした人もある。
実は、「ロシアにおける日本年」ということで、ロシアとの文化交流の件でモスクワに行ってきた。そして、静岡県舞台芸術センターの鈴木忠志さん演出の「シラノ・ド・ベルジュラック」を観た。そのプログラムに、鈴木さんがこの劇を演出しようとしたのは、原作者エドモン・ロスタンの「シラノ・ド・ベルジュラック」に感動したためでなく、ある疑問を心に抱いたためだ、と書いているのである。
これにヒントを得て、いまこのコラムを書いているのだが、鈴木さんの疑問は、「フランスで書かれたこの戯曲に、なぜ日本人はこれほどまで感動し、好きになったのだろうか」ということである。
この疑問を出発点に、鈴木さんは日本の俳優に、主演女優はロシア人、それに音楽はイタリアのヴェルディの「椿姫」という思いがけない取り合わせで、このフランスの演劇をモスクワで行い、モスクワの観客に深い感動をもたらしたのである。これこそ、まさに国際的な文化交流である。
公演は素晴らしかったが、ここではそれに触れず、頭書きのことを考えてみよう。感動が人を動かすことはだれでも知っているが、鈴木さんは、「ある戯曲に感動することによってではなく、自分は疑問から出発して演出する」という旨、書いている。
疑問によって出発するので、日本人に好かれるもうひとつの外国の演劇(オペラ)「椿姫」の音楽を、「シラノ・ド・ベルジュラック」に用いる、などという思いがけない組み合わせが生じ、創造性が高められる。
感動によって動かされるときでも、人間があらたな創造に向かうことはあるが、ともするとそれは受け身になったり、方向性の決まったものになりがちだ。これに対して疑問の方は、それを抱く人の主体性がかかわってくるので、どの方向に向かうやもわからず、創造的な要素が強くなってくる。エドモン・ロスタンにしても、彼の作品がどのように観客を感動させるかは、ある程度、予測し得ただろうけれど、そこから鈴木さんのような疑問が生じることなど、考えもつかなかっただろう。
親や教師などの大人が、子どもが感動するのは好きだが、疑問を持つのを嫌がることが多いのは、もっともだと考えられる。子どもの感動は、大人の「思い通り」なので、安心なのである。
ところが疑問となると、どこに話が進んでゆくかわからない。そこでなるべく疑問を封じて感動させようとするので、子どもの創造性の芽がつみ取られるのではなかろうか。感動はもちろん大切なことであるが、疑問に対しても開かれた態度で大人が子どもに接し、子どもから出される疑問を育てるようにすると、創造性が高まると思う。
子どもの「指導」をする人は、このことをよく心に留めるべきである。
(週刊朝日 2003.7)
臨床心理学者。元文化庁長官。主な著書に『ユング心理学入門』、『昔話と日本人のこころ』など。
感動と疑問
タイトルをみて、これはどういう取り合わせだろう、と思われた方があるだろう。ここでは、どちらも「人を動かす力」のあるものとしてあげた。何かの話に感動して、「よし、やろう」と思う。あるいは、何かについて「なぜだろう」と思い、答えを探しているうちに、いろいろなことをしなくてはならなくなってくる。りんごが落ちるのを見て疑問を感じ、その後に相当なことをした人もある。
実は、「ロシアにおける日本年」ということで、ロシアとの文化交流の件でモスクワに行ってきた。そして、静岡県舞台芸術センターの鈴木忠志さん演出の「シラノ・ド・ベルジュラック」を観た。そのプログラムに、鈴木さんがこの劇を演出しようとしたのは、原作者エドモン・ロスタンの「シラノ・ド・ベルジュラック」に感動したためでなく、ある疑問を心に抱いたためだ、と書いているのである。
これにヒントを得て、いまこのコラムを書いているのだが、鈴木さんの疑問は、「フランスで書かれたこの戯曲に、なぜ日本人はこれほどまで感動し、好きになったのだろうか」ということである。
この疑問を出発点に、鈴木さんは日本の俳優に、主演女優はロシア人、それに音楽はイタリアのヴェルディの「椿姫」という思いがけない取り合わせで、このフランスの演劇をモスクワで行い、モスクワの観客に深い感動をもたらしたのである。これこそ、まさに国際的な文化交流である。
公演は素晴らしかったが、ここではそれに触れず、頭書きのことを考えてみよう。感動が人を動かすことはだれでも知っているが、鈴木さんは、「ある戯曲に感動することによってではなく、自分は疑問から出発して演出する」という旨、書いている。
疑問によって出発するので、日本人に好かれるもうひとつの外国の演劇(オペラ)「椿姫」の音楽を、「シラノ・ド・ベルジュラック」に用いる、などという思いがけない組み合わせが生じ、創造性が高められる。
感動によって動かされるときでも、人間があらたな創造に向かうことはあるが、ともするとそれは受け身になったり、方向性の決まったものになりがちだ。これに対して疑問の方は、それを抱く人の主体性がかかわってくるので、どの方向に向かうやもわからず、創造的な要素が強くなってくる。エドモン・ロスタンにしても、彼の作品がどのように観客を感動させるかは、ある程度、予測し得ただろうけれど、そこから鈴木さんのような疑問が生じることなど、考えもつかなかっただろう。
親や教師などの大人が、子どもが感動するのは好きだが、疑問を持つのを嫌がることが多いのは、もっともだと考えられる。子どもの感動は、大人の「思い通り」なので、安心なのである。
ところが疑問となると、どこに話が進んでゆくかわからない。そこでなるべく疑問を封じて感動させようとするので、子どもの創造性の芽がつみ取られるのではなかろうか。感動はもちろん大切なことであるが、疑問に対しても開かれた態度で大人が子どもに接し、子どもから出される疑問を育てるようにすると、創造性が高まると思う。
子どもの「指導」をする人は、このことをよく心に留めるべきである。
(週刊朝日 2003.7)